ヴェニューが音楽を変えた 〜 フィルモアとマイルズ

hisashi toshima 戸嶋 久
8 min readMar 17, 2020

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https://open.spotify.com/playlist/7A2RZqr5MdzBPJqEsYiqSu?si=c2Iy2bVKRlOCuPx2gJf-WQ

ライヴにおけるマイルズ・デイヴィス・バンドが1969年はああだったのに、レパートリーもバンド人員もほとんど変わっていない70年バンドになると突然こうなったのは、どう考えてもフィルモア出演が続いたからだというのがぼくの最近の見方です。だから音楽家の内からくる音楽的な必然的変化によるものではなくて、外的プレッシャーというか、どんな会場(ヴェニュー)でやるかにより展開する音楽も違っちゃうということだったんじゃないかと。そんなことってたぶんあると思うんですね。

ニュー・ヨーク・シティとサン・フランシスコの東西フィルモアはロック・ミュージックの殿堂です。ぼくなんかがくどくど説明する必要はないでしょう。マイルズが東西とものフィルモアに出演したのは1970年のほぼ一年間だけですけども、そのたった一年間で、フィルモアというヴェニューが、マイルズを、変えたんです、根本から、ぼくにとってはいいほうに、ストレートなロック/ファンク・ミュージック方向に、そして永遠に。

1970年の一年間でマイルズ・バンドがどれだけ東西フィルモアに出演しているかというのを一覧にしたのがこれです。公式盤で聴けるものの右には * 印を、ブートでなら聴けるものの右には + 印をつけました。日付の下の括弧内はメイン・アクトです。

East

3/6
3/7 * Live At The Fillmore East (March 7, 1970): It’s About That Time (2001)
(ニール・ヤング&クレイジー・ホース、スティーヴ・ミラー・バンド)

West

4/9
4/10 * Black Beauty (1973)
4/11 * (partially) Miles At The Fillmore: Miles Davis 1970: The Bootleg Series, Vol. 3 (2014)
4/12
(グレイトフル・デッド、ストーン・ザ・クロウズ)

East

6/17 *+
6/18 *+
6/19 *+
6/20 *+
Miles At The Fillmore: Miles Davis 1970: The Bootleg Series, Vol. 3
(ローラ・ニーロ)

West

10/15 +
10/16
10/17 +
10/18 +
(リオン・ラッセル、シー・トレイン)

1971年

West
5/6
5/7 +
5/8
5/9
(エルヴィン・ビショップ・グループ、マンドリル)

けっこうたくさん出演していますよね。マイルズがフィルモアにどんどん出演したのはコロンビアの社長クライヴ・デイヴィスの差し金で、1969年8月に録音し翌70年4月発売だったレコード二枚組『ビッチズ・ブルー』のプロモーションのためでした。販売促進のために会社がとったキャンペーン方策がフィルモア連続出演だったということで、クライヴがフィルモアのビル・グレアムに話をもちかけ、マイルズのことも説得したんですね。

1970年当時の東西フィルモアが、ジャズではなくロック界にとってどんなヴェニューだったのか、それまでマイルズが出演してきたジャズ・ライヴ系の会場とは根本的に意味の異なる場所だということや、客層だってぜんぜん違っているし、くりひろげられる音楽の種類も(たぶん)違う、 そんなフィルモアのことを、もちろんマイルズだって理解していたはずです。

理解した上で、クライヴ・デイヴィスの説得に応じフィルモア出演(しかもかなり多数)にイエスを言ったわけですから、1969年まで自分のバンドで展開していたような音楽では通用しないともわかっていたはず。マイルズという人物は自分をどう見せるか聴かせるか、どうアピールしたらいいか、人気獲得のためにはどうしたらいいか、こういったことをずっと以前から常に考え抜いて実行してきた音楽家なんですよね。

スタジオ録音でたどるかぎり、マイルズ・ミュージックが明快なロック/ファンク方向に舵を切ったのは1968年の『キリマンジャロの娘』からで、その後69年の『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチズ・ブルー』とずっとその方向を推し進めてきましたが、それはスタジオ録音だけでのこと。ライヴではまだまだジャズ・ミュージックを展開していたというのが事実です。

といっても1968年にはマイルズ・バンドのライヴ記録はなし。69年に入りいわゆるロスト・クインテットでアメリカとヨーロッパの各地をツアーしてまわっていますが、このバンドのライヴ音楽は60年代的フリー・ジャズの総決算みたいなものでした。スタジオではすでに『ビッチズ・ブルー』も完成済みだったのに、と思うと意外ですけれど、マイルズってそんな音楽家なんですね。保守的な面も強かったというか奥手だったんです。

1969年のロスト・クインテット最終公演は11月9日のロッテルダム・ライヴ。これの次が上でも書いた70年3月のフィルモア・イースト出演になります。だからそのあいだにコロンビアのクライヴ・デイヴィスがフィルモア出演の話を持っていき、それを了承したマイルズは、さあどんな音楽をやったらいいのか、フィルモアだぞ、と思案したんじゃないかと思うんですね。

その結果が1969年までのフリー・ジャズ色の濃い音楽ではなく、もっと明快でタイトにグルーヴするロック系のものへ移行しないとダメだろうということで、まずドラムズのジャック・ディジョネットに(ジャズ的なものではなく)もっと明快でシャープな8ビートの定常リズムを刻ませ、さらにここが最大のポイントだったかもしれませんがコントラバス奏者のデイヴ・ホランドにエレクトリック・ベース(フェンダー・ベース)を弾くよう指示しました。

猛々しさ、荒々しさは1969年バンドのライヴからありましたが、それをもっとストレートにわかりやすいかたちでビートに乗せるように工夫したんですね。それで聴いた感じ8ビート・ロックと変わらないような音楽に仕立て上げることに成功したと思います。ヴォーカルが入るか入らないかの違いこそあれ、本質的に似たような音楽になっていったんですね。それにいわゆるロック系の音楽だって1970年前後のライヴでは長尺なインプロヴィゼイションがあたりまえでしたしね。

結果的に1970年にフィルモアでマイルズ・バンドがくりひろげた音楽は、同時期に同じヴェニューでやったグレイトフル・デッドやフランク・ザッパ (マザーズ)やオールマン・ブラザーズ・バンドやサンタナなどにかなり近いものになっていたと言えるんじゃないでしょうか。そうなった最大の要因が、マイルズという音楽家の内なる欲求というよりは、フィルモアで観客にアピールしないと!と思う外的なプレッシャー、端的に言えばウケ狙い、売れ線狙いだったんじゃないかと。

まず最初クライヴ・デイヴィスからフィルモアでやってくれと言われたマイルズは、乗り気じゃなかったかもしれません。でもやると決めた以上、全力を尽くして自分のバンド、自分の音楽をアピールしたい、それもフィルモアに来るような若者、サイケデリック・カルチャーのまっただなかにあったヤング・ヒッピー・ジェネレイションにウケたい、結果的にはそれでアルバム『ビッチズ・ブルー』が売れてほしい、と思ったはずです。

クライヴ・デイヴィスの目論見どおり、1970年にフィルモア出演をくりかえしたマイルズのその年の最新作『ビッチズ・ブルー』はバカ売れして、ジャズ系のレコードとしてはありえないほどのメガ・ヒットとなったのです。この事実がマイルズを変えました。時代は、若者は、こういう音楽を、フィルモアでやったようなそんな音楽を求めているんだ、だから今後はそれをやっていけばいいと判断したでしょう。

そんなことで1970年以後のマイルズ・ミュージックははっきりとロック/ファンク系の、特に明快なリズム採用に、踏み出したというよりモロにそんな世界に身を染めることとなったんじゃないかと思うんですね。ジャズの持つうまあじはそのままに音楽の基底部をグルーヴィなものに変革したマイルズ。ぼくらグルーヴ・キッズにとってはうれしいものでした。1970年代以後のマイルズ・ミュージックはこの上ない贈りもののように思えますからね。

(written 2020.2.12)

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hisashi toshima 戸嶋 久
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Written by hisashi toshima 戸嶋 久

loves music, coffee, food, cats, football. iPhone, iPads & MacBook Pro user. Miles Davis enthusiast listening to some others.

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