『アン・イノセント・マン』がビリー・ジョエルの最高傑作
Billy Joel / An Innocent Man
いまいちばん好きでいちばんよく聴くビリー・ジョエルのアルバムは『アン・イノセント・マン』(1983)で、最高傑作じゃないかとも思っています。どこがいいって、ビリーがエンターテイメントに徹しているところ。前作『ナイロン・カーテン』はヴェトナム戦争や労働問題など(ビリーが青春を過ごした)1960年代からアメリカの社会に巣食う病巣をえぐってみせたシリアスなアルバムで、重い手ごたえを感じるものでした。
対して一転次作の『アン・イノセント・マン』は音楽トリビュート作品。ビリーは1950〜60年代にこども〜青春時代をすごしていますが、その時期に耳にしたアメリカン・ポップス、それも主にブラック・ミュージックへのオマージュ・アルバムとなっているんですね。とことん楽しもうという考えと態度に満ちた作品で、聴いていてこちらの気分もウキウキ。ここにはシリアスな社会問題もないし複雑な人間関係もない、ただただ心わくシンプルで楽しいサウンドがあるだけです。
『アン・イノセント・マン』では曲がとてもいいっていうのもすばらしいところですね。丸くてコクのあるソング・ライティングで、ビリーのいっそうの成熟を感じます。1曲目「イージー・マニー」からそれは感じとることができますが、これはソウル・レヴューのスタイルにのっとった曲なんですね。2曲目の「アン・イノセント・マン」はベン・E・キングへ捧げた感じでしょうか。「スパニッシュ・ハーレム」とかあのへんのレパートリーを意識したんでしょう。
ソングライターとしても歌手としても最高度の成熟をみせているのが続く3曲目「ザ・ロンゲスト・タイム」と4「ディス・ナイト」です。後者ではサビにベートーヴェンを引用していますが、それがそうとはわからないほどすんなりハマっているのもみごとです。二曲とも歌詞もメロディもいいし、そのまろやかな音楽の世界に酔いしれます。いやあ、すばらしいですね。どっちもドゥー・ワップなど黒人ヴォーカル・グループのスタイルを下敷きにしています。
ビリーがひとりでオーヴァー・ダブで多重唱したこれら二曲はアルバムのなかでも特筆すべき傑作曲で、こういったすぐれたメロディを書けるようになったということがたいへんに大きな成長・成熟なんです。アルバムではその後やや小粒なものが並んでいるかなと個人的には感じますが、それでもキュートでポップないい曲が続いていますよね。黒人音楽というよりオールド・ポップス / ロックンロール寄りでしょうか。
そしてアルバム最終盤の二曲はふたたび傑作が続きます。メロウでスウィートなバラードである9「リーヴ・ア・テンダー・モーメント・アローン」と、クラーベのリズムを最大限に活用したカリビビアン・ソング10「キーピング・ザ・フェイス」。前者ではどこまでも徹底的に甘く、ゲスト参加のトゥーツ・シールマンスもこれでもかともりあげます。後者はダンサブル。跳ねる強いビートに乗った乾いた質感のサウンドが心地いいですね。
(written 2020.3.7)